【人の心が映し出すもの、それがもたらす現実という世界】

先日、僕が関わらせて頂いたクライアントさんから、
改めて学ばせてもらったこと。

それは、

 

「身体の症状や人間関係など、問題の種類や大小を問わず、
目を向ける本質は己の中にあり、それが変われば周りが変わる」

 

ということ。

 

その方は、数日前に一度、
軽く挨拶をさせてもらっただけの僕の名刺を片手に、
弱ったような怯えたような声で、
突然、僕に電話をかけてきた。

 

その時は、もしかすると
藁をもすがるような想いだったのかもしれない。

 

電話の先から聞こえてくるのは、
異常なほどの肩・腰・目の奥の痛み、
まるで酔ってしまったかのような意識のフラフラ感、
何かに取り憑かれたような全身の倦怠感、
毎晩うなされる悪夢、
子供が学校へ行ったあとの孤独感、虚無感、無力感など
聞いているだけでも暗くて深そうな悩みの羅列。

 

施術を受けに来てもらうため最寄りの駅まで迎えに行くと、
表情は固く、でも朦朧としているような顔つきで、
少しフラつきながら歩いてきた。

 

「私、あまり人にいろいろ喋ったりしない方やから、
それは分かっておいて欲しいんよ。」

 

駅からサロンまで3分ほどの短い道のりで、
会話の中から出てきた言葉。

 

「あー、いろいろ抱えてるんだなー。」

 

と、様子を見ながらサロンに到着し、
簡単な問診票に記入してもらって、施術へ。

 

内容を確認しながら少し深堀りしていくと、
うつ、アルコール依存症の既往をもち、
更年期障害の疑いでホルモン療法やプラセンタ治療を受け、
アカシックレコード診断や霊媒治療まで経験があるとのこと。

 

いつもそうだが、
僕の施術は初回の場合、2~3時間かかってしまう。

といっても、施術時間は長くても1時間程度。
あとは、ただただ会話のみ。

始まりから終わりまで、
どうしても相手のことを知りたくなるから。

 

来られた理由、困っている内容から始まり、
お仕事、家族のこと、
学生時代、幼少期、
好きなこと、嫌いなこと、
自分のことをどう思っているか、
他人からどう思われていると感じているか、
などなど・・・

 

カウンセリングなんて言ってもらえるような、
そんな大層なものではなく、
ただただ、その人を知ろうとするだけ。

 

パッと見の先入観や、こちらの私情は挟まず、
ただ観て、ただ聴く。

 

そうすると、
徐々に抱えているものの本質が見えてくる。
もつれた糸の全体像、質感、カタチ、色。

 

どのように絡まって、どこが解けなくなっているのか。
そもそも、なぜそのように絡まって、
なぜそれが解けなくなってしまったのか・・・。

 

身体も心も同時に進行。

 

次々に現れてくる悩みの源(闇)を、
ただ傍観しながら、流れに任せる。

 

やってることはもはや、
整体でもメンタルセラピーでもないかもしれない。

ただ僕が大事にしていること。したいこと。

 

“クライアントの中に潜む闇に本人自らが気づき、
自分でそこに目を向けられるように道を照らし、
なぜそうなったのかを自分自身で知ってもらうという、
きっかけ作りに徹すること“

 

これが、今の僕のイメージ。

前に比べて、施術の時にやっていた作業も、
触れる場所も、その強さも日に日に少なくなっている。

 

その代わりに増しているのは、
ただ感じて、ただ待つこと。

 

その方にどんな施術をやったか、もうあまり覚えてないけど、
喋るのを嫌がっていたクライアントが自分から会話を展開し、
子供との関係が上手くいってないことをさらけ出していた。

 

今までの自分の想いや関わり方を振り返り、
そこにあった間違いや根底にある自分の声に気づき、
本当はどうしたいのかを涙を流しながら語っていた。

 

それが落ち着くころになると、施術もいよいよ終わりに・・・。

 

時々その後の経過を聞いているが、
翌日以降は身体的にも精神的にも症状は出ていない。

 

毎日の活力も戻ってきて楽しんでいるとのこと。

 

子供との関係性も改善に向かい、
それに併せてお子さんの方も自主性が高まり、
受験を前に目の輝きが戻って活力が溢れてきているらしい。

 

目の前で起こっている現実は、
良くも悪くも自分の中にある何かが創り出すホログラム。

「セカイ」という真っ白のスクリーンに映し出された、
自作自演の映画のようなもの。

 

何をどう映し出すか、
そのフィルムは自分の中から湧き出てくる。

「この世界や現実が、気づきによって変化するもの」

だったとしたら・・・。

 

映し出される映像を見つめながら、
それを観客になった気持ちで見つめられたとしたら。

 

起こる出来事がその時には好ましくないものだとしても、
ストーリーの中に散りばめられた、息を呑むワンシーンとして、
否定や恐れを手放して別の見方が出来るんじゃないだろうか。