【日常の中の非日常からようやく見えるいつもの自分と、内側に湧きおこるカオスの連続 】

先日、4日間ほど日常の中にある非日常の世界に身を置き、
自分にとっては極上の経験とカオスを味わった。

 

たとえば、今の生活の中では見えこない(気づけていない)、

「足るを知る」という経験。
「食べ物が確保できることの安心感」
「人に話を聞いてもらえることのありがたさ」
「寝る場所があることの幸せ」

 

他にもたくさんあるが、いつもの生活では忘れてしまいがちな、
当たり前のようで実はとても幸せなことに、
嫌でも気づかされる状況と環境。

 

そこでようやく、自分という存在の在りかを垣間見る。
そして、そんな経験を通して改めて気づく、
自分の弱さ、汚さ、怖れ、不安、恥という僕を創る要素の数々。

 

でも、そういった闇の部分だけじゃなくて、
自分の持つ能力や、可能性や、
人との繋がりという光の部分も同時に見えてくる。

 

「もっとできる、やれる」

 

そういってくれる人がいる。

 

それは、ただ単なる励ましではなく、
かといって、尻を叩くわけでもなく、
純粋にそう信じてくれているという感覚に近いもの。

 

言われたからやるとかそういうものでもないけれど、
でも、見てくれている人はちゃんと見てくれているもの。

 

他人を通して、自分に出会う。
他人を通して、自分の中に在るものに気づく。

 

今回も、自分の能力についてまた面白い発見もあった。
それについては、これからの日常という現実世界の中で発揮しようと思う。

 

ただ、自分でも気づいていない面もまだまだあるようだ。

 

それも、ある人が伝えてくれた中の一言だったが、
その一言が、また自分の中に静かな炎をともす種火になりそうな予感。

 

引っ越し作業がなんとかほぼ完了して、
あっけないほどなんにもないこの部屋は、
自分を味わい、じっくり中身と付き合うには、
ちょうどいいのかもしれないと思えるような、
静かな一人の時間と空間。

 

「なにもないことが、すでにすべて在ることを感じさせてくれる」

 

こういう時間に中に身を置くことは、どうやらかなり好きらしい。
猛烈に動くために、静止して蓄える。
静止して蓄えるために、また猛烈に動く。

 

どっちかというとスロースターター。
炭火みたいな火のつき方だから、
燃えるまでは時間がかかるが、燃え始めると止まらなくなる。

 

自分で自分が面白くなる。

 

ドMさながら自分を追い込んで、
溜まりに溜まったものからの解放を楽しむ。

 

結論。吾輩はただの変態である。

以上。